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東日本大震災に関する支援活動記(1)−3

いよいよ、米沢市営体育館避難所へ。
個人的な感想になるが、避難所へ入る瞬間、一瞬の躊躇と、足元から震えが上がってきた。「入りたくない」という思いが頭をよぎったことも事実。そんな感情もある中で、持ってきた住宅資料を握りしめ、まずは、体育館の中へ。

午前10時をまわっていた為か、男性の姿はほとんどなかった。仕事に行っている人もいるが、住まいや仕事を探しに出かけている人も少なくないらしい。また、今の仕事を失わない為に、自主避難地域にある職場に出かけている人も…女性もパート探しや、洗濯の為にコインランドリーに出かけている。

床に、寒さよけの段ボールを敷き、その上に布団を敷いて、それぞれの場所を確保しているのは、阪神淡路大震災の時の避難所と同じ。ここには地震発生当時、約1,000人が避難していたらしいが、親戚や知人を頼って他府県へ移った人も多いらしい。遠くは島原まで…

最初は、ストーブを囲んで談笑している7人の大家族に話しかけてみた。世間話の延長で移住の意思があるか否かを聞いたところ、「子どもの学校もあるしね〜」と難しい顔。資料を渡すと「えーっ、兵庫県?関西?まあ、遠くからわざわざ…」とねぎらってもらったが、関西は全く考えていない様子。資料は快く受け取ってくれた。

次に、女性二人が話しているところにお邪魔した。移住の話を口にしたところ、「兵庫県?遠いわ〜!」と…

その後も何人かに資料を渡しながら話をしたが、困った顔が多かった。兵庫県がどこにあるかを知らない方もいた。「神戸市」と言った方が反応が良かった。考えれば、私も茨城県、宮城県、福島県の位置関係を正確に…と問われれば確実に答える自信はない。移住、または一時避難を考えていても、やはり、東京より西へとはなかなか考えが及ばないようだ。直接渡せる人は限られていたので、後は、何カ所かに分けて、まとめて置くことにした。

ここの避難所は、大きく分けて4カ所から成っていた。体育館、武道館、文化センター、そしていくつかの個室、これらが渡り廊下などでつながっており、雨や雪に降られることなく移動できる。調理室もあり、昼と夜には、炊き出しも確実に行われているようだ。医療チームの巡回も行われていた。エントランスには近隣の住宅情報、雇用情報などが貼りだされており、物資も必要に応じて、自由に持っていけるようになっていた。


私たちは、少し休憩をとった後、午後2時から、吉椿さんたちが毎日行っている「足湯」活動に合流して、そこでも、話を聞きながら、資料を渡すことにした。3月末とはいえ、道に雪が残る米沢。足を温めて、つぼを刺激すると、身体の緊張も緩み、一瞬ではあるが、肩の荷を下ろすことができるのか、いろいろな話を聞くことができた。

85歳の元漁師のおじいちゃんは、65歳まで近海漁で活躍していた話をしてくれた。家は、海のすぐ近くだったので、津波ですべて流されてしまったらしい。年金をもらっているので、生活は何とかなりそうだが、住むところを探さないといけないと話していた。もちろん、生まれ育ったまちの近くで…

あるおばあちゃんは、その娘、孫の3人で避難している。話しながら、気持ちの不安定さを感じた。「福島にはもう住めない」「孫の保育園が決まらない」「私は天涯孤独」など、話がいろいろ飛ぶ。

子どもたちとも、話ができた。中学生、高校生の男子と女子、7〜8人で輪になって座り、話していると「避難所にいる方が安心する。外に出たくない」「お母さんと、今は、会えないんだ」「高校が東京で決まった。今、ここを離れるのは不安」…子どもたちも、言葉にできない重い気持ちを背負っていることを感じた。
ある子は、南相馬に住んでいたそうで、自分の家が流される様子を見ており、それを、私に一生懸命話してくれた。聞くことしかできなかった。子どもたちは兵庫県(関西)に興味を示し、どんなところかもっと話してほしいと言われた。

南相馬から3世代5人で避難してきたうちの、ご夫婦と話ができた。ここの避難所に来られるまで、ホテルに泊まったり、知り合いの家に泊まったり、お金と気を遣ってきたとのこと。そして、一昨日にやっとこの避難所にたどり着いたと聞いた。被災された方の中でも、避難所の情報が入らないこともあるんだろうか…?このご夫婦の奥さんの妹さんが、神戸に住んでいるという話から、以前ご夫婦が神戸に旅行に行った時の思い出話でひとしきり盛り上がった。で、思い切って移住の話をしてみた。他の方々よりも反応は良かったが、「80代のおふくろも一緒なんでね…」と。他の人にも渡しますと言って、資料を余分に持って行ってくれた。
去り際、奥さんがぽつっと「どうせ、しばらくは元の家に戻られへんしね」と言った言葉が耳から離れない。


頭も心も整理がつかないまま、「ゆいの木」の戻り、夕食をいただいた後、ボランティアミーティングに参加させてもらった。私たちを含め7名でのミーティング。それぞれ、話していて気になる人がいるようで、活発に意見交換がなされていた。悩みも共有。私たちが16年前に行っていた光景と同じだが、東日本大震災は、原発の問題が大きすぎて、ボランティアも戸惑うことが多いようだ。現在は、春休みの為、地元の高校生、大学生ボランティアがあふれているが、4月に入ったら大幅に減るのではないか…
約40時間寝ずに動いていた為、午後10時に限界が訪れ、就寝。

30日、午前6時30分、米沢を出発。
帰りも、ガソリンに苦労することはなく、夕方5時30分に神戸に到着。
弾丸ツアーだったが、避難所で被災された方の声を直接聞き、触れたことは、「ひょうご生活応援プロジェクト」の今後の活動の方向を修正し、進む為に、非常に有効であったと思う。


4月1日「ひょうご生活応援プロジェクト」第3回打ち合わせ。
米沢の報告を行い、こちらから渡す兵庫県の住宅情報資料の充実、また、他の避難所にも移住のニーズを探りにいく必要があると提案。第2便が4月18日〜22日に、米沢経由で、岩手県の遠野へ行くことに決定。
米沢以北は、ガソリン事情が悪いらしい。詳細は、遠野で活動しているNGO恊働センターのメンバーから聞く。

遠野へは、兵庫県の住宅情報資料を500部、南三陸町などへ100部、石巻のお寺へ20部を郵送することになった。東京の避難所にも資料の配布を検討。

 

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